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でら偏見(10) 「0」を信じるな!

「0」を信じるな!

「数」というものは、まるで生き物のように僕達の人生をいつも監視し、時にその「数」の変化で著しく人生を左右させられる・・・。
ギリシャの哲人ピタゴラスは「万物の基は数であり、天体の運行にはじまって、すべてこの宇宙は数学的法則によって貫かれ支配されている」と言っています。

「数」は無限に集合し、また散開しながら法則を形成していき、僕らの存在を生まれる前から「確率」で割り出して、その後の状態を予測していく…、まるで「数」は占いか神様のようだ。

メソポタミア文明から始まったとされる「数」の支配は、今尚、カレンダーや時計、出産予定日やDNA、名前の画数・誕生日・住民番号、寿命・IQ・EQ・偏差値に株価に競馬にお金…、など世の中に存在して人生を大きく影響させている。たった今呼吸したことだって「数」の法則に従った一つの現象かもしれない。

でも、僕はこの「数」の不可解な矛盾を感じてしまう。それは「0」であるということ。
ニュートンが落ちるリンゴを見た時から「F(力)=mgh(質量・重力加速度・高さ)」の法則で地球に重力が存在していることがわかった。でも、地表0メートルに入る場合、計算式では「F=mg×0」で答えは「0」のはずなのに、そのことを質問すると先生はまるで実験用のサルでも見るような目で「F=mg×1」だと言う。自然数「1」を不問とすることで発達してきた今の「数」の法則に従い生きている僕にはそこで「0」の不可解さに惑わされてしまう。

「0」とは「存在しない」ということだ。「1」とは「存在する」ということだと誰かに言われてその時は納得したつもりだった。でも、祖母が亡くなり火葬場で焼かれ「0」になった時に、僕はまた「0」について考えなおさなければならなくなった。

「0」 は存在しないはずなのに、実際この世に「0」という概念が存在している…。
「0」になった祖母は過去形だとしても僕にとって「1」で在り続けている…。だとしたら、骨になっても祖母は死んでいないし、祖母のDNAを引き継いだ僕は間違いなく「1」でいる。

何も無いところから「何か」ができるわけはないし、「何か」が一切無くなるということもないはず。宇宙は、生命は「0」からできず、最初から「1」が存在していたのだろうか?じゃあ、その「1」は何から生じたものなんだろうか?

***

デザインにも同じことが言えると思うんです。
僕は依頼者からの注文という「1」があって制作できるわけで、依頼者がいなければ僕は「0」のままのはずだ。
でも、僕自身は注文があってもなくても「1」でいる。
じゃあ、その「1」は何から生じたものなんだろうか?

ベートーヴェンの言葉に、「なぜ私は作曲するのか? それは、私が心の中に持っているものは外に出なければならないからだ。ゆえに私は作曲する」とあるように、誰しもが内在する「1」を最初から持っているからこそ存在することが出来るんだと思うのです。

才能が「0」の人もいなければ、価値が「0」の人もいない。ただ、”あなたは「1」ですよ!”と周りが認めてくれるか、もしくは自分自身が認めるかだけだと思うのです。

みんな何かしらの「1」を持って私達は生きているはずなのです。
だから僕は「0」を信じず、デザインをしています。

written by ayanpa



Posted by ayanpa | でら偏見 |2005年08月24日 | Comments [0] | Trackbacks [0]



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