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でら偏見(3) おいたち ~追憶~

でら偏見(3) おいたち ~追憶~
若かりしころ、甘ったれて社会になじめず、日本で何もやりたいこと・未来が見えてこなかった時期に、僕の尊敬する人物・本田宗一郎の自伝を読み、「終戦による民主主義の時代がどうなるかわからないから、将棋を指しながら一年くらい遊んで暮らした。
…結果的にその何もしなかったことが時代の流れを読むことになった。」の一文が僕をそのまま海外逃亡という決断をさせた。そして「長渕剛」の音楽に身を任せながら自分の世界に逃げ込んでいった。

場所はどこでもよかった。誰も僕の事を知らない場所・自分の可能性を探せそうな場所・色々な人がいる場所を条件に調べてみると、ワーキングホリデー制度があり、名古屋の姉妹都市であるオーストラリアのシドニーがあり、そこには世界中の移民が住み、物価も1ドル70~80円程度であるという情報を入手した。

虎の子50万円の銀行残高証明をとりオーストラリア大使館に個人申請し、通信簿でいつも英語が「2」の僕が片道キップ握り締めながら「まあ、一年くらいはなんとかなるだろう」…と甘い妄想を抱いて単身、大韓航空の飛行機に右足を踏み込ませたのであった。

■■■ 9000キロ向こう側の常識 ■■■

「世界人口約60億人における日本の人口は約1億。つまり、日本人の持っている常識は60分の1しかないということである。」と何かの本で読んでまさにそれを実体験することになった。ここでは「お金のない人」は本当にない。日本のニュースで「アパート内で貧困のため餓死」とあったが、ここではそんなことできない。借金もできずに路上で死んでいく。それに、そうなる前に生きていくために信号待ちしている車の窓を拭いて小銭をもらっている。

仕事さえ選ばなければ日本でだって生きてゆける。
生きるということに対するスタンス(貪欲さ)が違う。

でも、英語の話せない僕が働ける場所はなかった。日本のエージェント通してこなかったせいか、事前の調査不測か、日本人情報センターがあることも知らなかったからだ。(後でそのことを知り、日本レストランで皿洗いの仕事を入手するのだが…) そのため、お金を惜しんで路上生活していた。夜12時に「コールス」というスーパーで売れ残りのパンを配っていて、現地の浮浪者と取り合いしたこともあった。

…そんな話はさておいて、色々な常識の中で決定的に違うのは「あいさつ」と「休暇のすごし方」である。誰それと見知らぬ人が親しげに挨拶してくる…。これは凝り固まった僕の心の塊を打ち壊すには十分なハンマーだった。

疑り深さや、恐怖感、恥ずかしさ、英語もしゃべれないから返事もできないというもどかしさが当初の僕には苦痛だった。なのに今は、日本のコンビニで「こんにちは!」と店員に声を掛けると変な顔される、というのに苦痛を感じるが…。


オーストラリアの休暇とは書いて字のごとく「休むための暇」である。全部そうだとは言わないが、僕の印象ではだいたいの人は近くの公園や海に出かけ、日向ぼっこや読書、バーベキューやビーチバレーやサーフィンといった日本では行事的なことがごく日常的に行われている。会社帰りにぷらっとサーフィン…日本で可能だろうか? 日本は金がないと楽しめないのである。

タバコが一箱約10ドル(約800円)し、GST(消費税)が10%、環境福祉税がべらぼうに高いこの国では車イス用タクシーやバスなどバリヤフリーのサービスが充実していて、公園の中に家があるんじゃないか?と思えるくらい開けていて、海に潜ればウニやサザエがとり放題。(違法です!でも何度か飢えをしのがせてもらいました)。この環境の中、イギリス人のジョセフとドイツ人のジョーゼフ(二人とも同じスペル)という最初の友人にバックパッカーで出会いゼスチャー以外コミュニケーションがとれない僕に色々教えてくれた。もちろん悪いことも…。

「10分歩けば日本人に当たる」くらい日本の情報センターも、日本人も多かったが、日本語がしゃべれるという安心感とともに「俺は何しにここに来たんだろう?」という不安にかられた。でも、ずっと後になってからだけど、「外国人に対する自分の言葉や文化や常識が、60分の1で他の常識と別々に存在しているのではなく、もともと自分には60個の常識の引き出しを持っていて、今まで一個の引き出ししか開けていなかっただけだ」と思ったら、日本人である、外国人であるといった拘りがなくなった。僕は一つの引き出しが開けたおかげで、誰それと隔たりなく話せるようになった。9000キロの差なんてないんだと思った。


■■■ 「チアーズ」との出会い ■■■

何ヶ月かしてここでの生活に慣れた頃、現地で日本人のために日本語で日本や現地の情報を発信する「チアーズ」という新聞社のデザイナー募集のちらしを見て興味本位に面接だけ、と思ってハーバーブリッジを渡った所にある会社を覗いた。そしたら、ジーパンTシャツ姿の小太りの浜田省吾か尾崎豊のような関西出身(上品な北側出身だと主張)の社長「Moさん」(相当な経歴の持ち主)が現れ、いきなり「じゃ、明日から!」と言ってきた。
「…いっ…いや、住むところ探さないといけないし、英語学校通うので…。」と返すと「じゃ、学校終わったらすぐきて!」…ということで、結局働くことになった。


後にビジネスビザで2年働くことになるのだが、その時は締め切り間際で前任デザイナーさんが辞めて誰も他にやれるひとがいないから、誰でもいいから手伝って欲しかったらしい。初日、学校の友達からの「パブに遊びに行こう」との誘いを断り出社。そこにあったのは僕に用意された机に山のように積まれた発注書とウィンドウズパソコンだった。その時のパソコン歴はマックで2年。ウィンドウズ?なんじゃそら!!?「英数・かな」の切り替えも英字キーボードだからわからん!ソフトも、イラレやフォトショップやクオークじゃない!! そんなところからスタートしたから、そのまま徹夜コース突入。朝にはなんとか数件の広告を作ったのでした。当然学校は欠席。悲しむ暇もなく締め切りに追われるのであった。

一番困ったのが電話応対。「へロー!」とかかってきたら「ほっ…ほーるど おん プリーズ」がやっとだった。相手の表情やしぐさがないと単純な言葉でも緊張してうまく聞き取れないのだ。結局、それが訓練になってリスニングは上達したのだが、あんまり学校に出席しないので友達はいなくなった…。締め切りがなんとか終わって不眠不休と英語ストレスを浴びた耳に、Moさんが「何もわからんかったのによくやったなあ!ありがとさん!」と褒めてくれた瞬間、10センチ体が浮いた気がした。


日本の「作業効率を優先した個性の埋没」に嫌気がさしていた僕が、自分で考え、必要なことを判断し、独創した。そして認められたような気がした瞬間だった。それまで、人の言われるままが社会の一員になることだと思い、自分を殺そうとしてもできず反発してた自分がばからしく思えた瞬間でもあった。
僕の「日本人→閉鎖的・不自由、外国人→開放的・自由」といった偏見を変えたのは外国の人でなく、日本人だったのです。


「必要は発明の母」という言葉があるが今僕は必要とされていた。
そして僕も英語やパソコンや人との交流を必要と思い勉強できた。

自由とは、不自由の中に存在する「必要性」なのだ。
生きること、才能・可能性も、死や、不可能の対極にあるのではない! 


これがきっかけで「自分が何をつくりたいか?」よりも「その人が何を表現してもらいたがっているのか?」の必要性をよく考えるようになった。他人のことを考えることは自分の個を殺すことではない。自分の個を生かすためにある。

それから僕のデザインは以前のと見比べると、ショーケースに飾られたような最新の流行からは遠のいてしまったが、お祭りの屋台のどて串と散切りキャベツみたいに、「クドいがつい食べたくなる味」が出てきたような気がする…。

ビジネスビザの期限が切れ日本に帰ってきて、今僕はデザイナーの仕事ではありません。僕のデザインは人生を「設計」することだと思いますのでまったく別の挑戦できそうな職種を選びました。僕は今人生そのものをデザインしようと思っています。僕のデザインに共感できる人、出来ない人、へたくそだと思う人など色々いると思いますが、これが僕のスタンスであり、表現なのでご意見色々あると思いますが勘弁して下さい。

オーストラリアに興味のある人は、是非チアーズを覗いてみてください。

written by ayanpa




Posted by ayanpa | でら偏見 |2005年08月24日 | Comments [0] | Trackbacks [0]



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