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でら偏見(8) 幸福への才能

「何で僕は生きているんだろう?」

僕はずっとそんなことを考えて生きてきたせいか、何かをデザインするにしても「何故そうなのだろう?」と思う癖があります。

「私は一生のうちで、自分ほど幸福への才能に恵まれた人間に会ったことはないし、また私ほど頑強にしゃにむに幸福に向かって突進していった人間を知らない」
(シモーヌ・ド・ボーヴォワール)

この女性解放を説いた女性作家の一節、「幸福への才能」っていったい何だろう?
僕の今の解釈は、「自分を認め許して生きれば、生きる意味を知る」ということ。
精一杯何かに打ち込んだり、愛したり、自分に「これが幸せ」という基準をはっきりと定めること…僕はこのことを「コンセプト」という言葉に変え自分に言い聞かせています。


僕は以前、現状が嫌でたまらなくなり、海外へ逃げ出しました。
でも、解放されたはずの色々な問題が却って浮き彫りになって「環境や他人が僕を苦しめていたんじゃなくて、僕自身が僕を苦しめていたんだ」ということを思い知らされたのです。失恋するのが恐くて恋愛できないような感覚で、「何をやってもうまくいかない」と自分を呪い、自分より優位にいる人・邪魔な人・嫌いな人には消えてほしいと過剰に意識して妬む…他人だけでなく、自分自身に妬んでいたと気付いたときには思わず鼻をつまんでしまいました。


自分の抱える劣等感や失望感、人と接する煩わしさ、将来の不安…今の世の中に僕なんか必要ない、楽になりたい…うまくやってる人を妬んでも自分の成長はまったくないし、あの世に逃げたら、この世の人達にも苦しみを撒き散らす結果になり誰も報われない。仕事が嫌で転職する、パートナーが嫌で別れる、近所の人間が嫌いだから引越しする、いやがらせをする…自分を心地よい状況へ変えよう変えようとして起こした行動が、解決でなく「嫌だから」の動機である場合、間違いなく同じ問題のくり返しで自分に返ってくる。何故なら、自分自身から逃れることはできないから。彼女が欲しい、お金持ちになりたい、尊敬されたい…自分の望みを突詰めていくと、最後に残ったものは、「生きる実感が欲しい」でした。


  「自己とは、自分にとって最良の友人である」 (アリストテレス)
 

誰かに裏切られたり、状況が悪くなったりしたとしても、真実である「自分」がそこにいれば、他の全てを失ったとしても幸せ…。ならば、僕にひっついてくる問題に、逃げずに対処することが、自分を心地よい状況へ変えるということじゃないだろうか?と次第に考えるようになったんです。
それは決してナルシズムや利己主義ではなく、実存主義的なもので、どんな自分でも「吾唯足知(ワレ・タダ・タルヲ・シル)<私は満ち足りている>」で、現状を受け入れ、失われたことをよりもそこから出来ることを考えることが大切だと考えています。

もちろん、簡単に問題を解決することなんてできません。
大切なのは解決するという意志…それが僕の中で何故生きるか?という問いにも同じことが言えると妙に思ったんです。何故生きるのか、何故健康でいたいのか、何故お金持ちになりたいのか、何故幸せになりたいのか、人間いつかは死ぬのに何故?


  「僕の前に道はない。僕の後ろに道は出来る。」 (高村光太郎)


そう、存在するということは「意志」があるからだと思うのです。
それがプラトン哲学の「イデア(事物が存在している根拠)」と繋がります。

パンドラの箱が開かれたことで、パンドラの犯した最大の罪は、最後に「希望」を箱から出してしまったことだ。何故なら人は希望を持つから絶望するのだ…と何かの本で読みましたが、それは違うと思うのです。
希望も絶望も同じ時空軸に同時に存在しなければこの世は成立しないと思うからです。以前のコラムでも書いたように、病気があるから健康を願い努力できるのと同様、人はいつか死ぬからこそ希望を持って生きていけるはずだと思うのです。

それから「僕がコンセプト(どうなりたいかという意志)を持ちさえすれば、世の中はずっと楽しくなる」と思うようになり、自分の未来予想図を作り運命を自ら決定し、コンセプトにそぐわない内外の雑音は出来るだけ削除することで、嫌なことや誘惑があっても動揺することや迷うことは少なくなりました(もちろんまだまだありますが…)。

「幸福への才能」=「意志」=「コンセプト」=…と色々な言葉に変わります。
「コンセプト」があれば仕事でクレームがあっても「よし、どう解決してやろう?」と思えれば自分も周りも雰囲気がよくなったりします。夫婦生活においても結婚するまでまったく違う環境で育ってきたので、二人の性格が一致するはずがありません。ですから「よし、将来こうなろう!」と二人で目標(コンセプト)を一致させておくだけでケンカしたりして二人の距離が離れたとしても、互いにそれを忘れない限りまたいつかまた繋がっていくのではないでしょうか?

漢字でも「辛い(つらい)」という文字に「一」を足すと「幸せ」になります。
だから、辛い状態を取り払うことが幸せではなくて、それに一つ何かを足すことが幸せです。
その「一」とは何か? それが「コンセプト」。
…言葉だけで言うにはとても簡単な事ですが、これが真実だと思います。逆に言えば、辛いことが起こるということは、幸せになるチャンスですよ!と誰かが教えてくれているようなものです。

また、料理でも塩やコショウをかけすぎると「辛(から)く」なります。
不思議ですね。料理も人生も辛味を抜くには何かを足せばいいのですから…。
そう思えれば、これから起こるかもしれない辛い事が不思議と恐くなくなります。

そんな感じでむにゃむにゃ考えて日々を暮らしています。
人は褒められたり認められることで幸福感を味わうことのできる生き物だと考えています。
だからまず、自分で自分自身が足る存在だと認めてみよう。

そのために僕にとってデザインは問題を解決するための最も有効的な手段なのです。
でも、「塞翁が馬」それは一過性の「状態」なのであって、常に幸福だということは難しい。
だからこそ「コンセプト=幸福への才能」が必要だと思ったんです。

これからも本業にせよ、このコラムにせよ、私生活にせよ、
「どんな問題も解決してみせる」という意志を持って人に与える努力をしていきたい。
それが僕の「幸福への才能」を磨き「幸福のライセンス」を得ることなんだろうと思います。

PostScript:
「失敗した過去を変える方法がある。それは未来に成功することだ」


written by ayanpa



Posted by ayanpa | でら偏見 |2005年08月24日 | Comments [0] | Trackbacks [0]



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