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2005年08月21日

でら偏見(4) ライセンス

陸上では人並みの体力を持っているのにプールでは25メートルも泳げず息があがってしまい、「泳ぎのセンスがない」と諦めている人がいる。人にはそれぞれ天性とも言えるセンスを持っていて、どう転んだってできるはずがない…と思っている人がいる。けれども、僕はそれを肯定していません。何故なら、偉人本田宗一郎氏の「やってもみずに出来ないと言うな!」という言葉を信じているからです。

F1で水冷式エンジンが主流の中、空冷式エンジンが表彰台に立ったことは、この「不屈の精神」があればこそだと思うんです。だから、僕は「負け犬」が嫌いです。自分の願望を放棄したり、現状を卑下したりして自分のメンツを立てることばかり考える人。もちろん開き直りは大切ですが、それがウケ狙いや、言い訳で終わってしまうのだとしたらとても悲しい。結果を出せない人はいないはずですから…。


野球でも9回裏まで、人生だって死の間際まで「勝ち・負け」はわからないのです。そもそも、人生に勝ち負けなど無く、それまで頑張ってきた自分に満足かどうかという判断があるだけだと思います。少なくともこの人生ゲームに生きている以上「負け」はないはずですから、現状の自分に諦めず、未来の自分のために一つでも多く「幸せ」という成果をあげる努力をする姿勢が必要だと自分に戒めています。

「ハルウララ」も負け犬(馬?)でなく、勝つ努力をしているからこそ試合に負けても勝負に勝つのだと思います。「オグリキャップ」だって、雑種馬だからサラブレッドには勝てないと自分のセンスを磨かなかったらああはならなかったでしょう。


話を戻して、水の抵抗は空気の約12倍だから、それを基準に単純計算をすると、陸上で300メートル移動できれば25メートル泳ぐ体力は十分あるとなり、あとは泳ぎ方のコツを知るか・知らないかだけとなります。「努力に勝る才能なし」ですから、何度も反復する経験が必要なのです。

人には得手不得手がありますが、それは才能がある・ないではなく、好きか・嫌いか、又は、努力する気があるか・ないかだと思います。「10歳で神童、15歳で天才、20歳過ぎればただの人」ですから、たまたま人より秀でるものをそのとき持っていたとしても、そのセンスは磨き続けなければ意味がないのです。

「センス」を「願望・可能性」と訳せば、「好きこそものの上手なれ」で、好きなことに対する情熱こそが、幸せが来るセンス:「ライ(来)センス:資格」を得ることだと思うのです。だから、「泳げるようになりたいけどセンスがない」と諦めて「負け犬」宣言せず、「今は泳げないけど泳げるよう頑張る」と言う人を僕は尊敬します。赤ん坊は立てないと思う前に立とうとしますよね。しりもちついたり、頭から落ちたりしながら次第に筋力が付き、要領がわかってきて立てるようになります。僕はこれが原点だと思います。


センスとは、その人個人だけに特殊要素とし存在するものではなく、社会の多数が共有する集団的一般要素だと思います。例えば、僕のデザインを気に入ってくれる人がいたとします。それは感覚の一致点があって、共通するセンスを互いに持っているということです。僕はたまたまその人の作り手となったに過ぎません。僕はその人と共有するセンスを持ち得たことに・作れたことをただ嬉しく思うのです。言うなれば僕は褒めてもらえるライセンスを得たのです。


逆に、僕が共感できるモノ(プレゼント・情報など)を提供された時には、ありがたく思い感謝できるのです。それは、僕のセンスと共通する人が僕の願望の作り手となってくれたからです。人は幸せの形が無数にあり、どのセンスを磨くかによって得手・不得手が出来るだけなのです。そして、得手の部分を提供できる人は、不得手の部分を提供される人だと思うのです。逆説もありきで、提供できない人は提供されないのです。それが「平等」というもので、恋愛においても、自分が幸せのセンスを持ち、人を幸せにする努力をしなければ、相手から幸せの提供はされないのです。


サイト運営においては、信用ある情報の提供(投資)が、その対価として報酬やアクセス数、別の有益な情報などに形を変えて返ってくるのでしょう。信用ある情報の提供をするには、デザインで信用ある印象を視覚的に与えなければいけません。それがデザインの「投資」です。似た様な事柄で、パピルスさん(誠実がモットーのすばらしいセンスの方で、僕は隠れファンです)はこんな↓理論を打ち立てています。

http://papyrus-net.com/game.html

http://papyrus-net.com/seijitu1.html

この理論に僕の意見を言わせてもらうと、「誠実な仲間を増やすための誠実な投資」があればナッシュ均衡には陥ないと思います。「♪いい奴ばかりじゃないけど、悪い奴ばかりでもない♪」ですから。


「類は友を呼ぶ」は本当で、まったく違う分野の人だとしても、願望の到達点(センス)が共通していれば必ず同等レベルで融合し、互いの分野で出来る事で支えあいながら一つのコングロマリット(複合体)となっていくのです。「誰も~一人では~生きられない~♪」ですから。「赤信号、みんなで渡れば怖くない」ではいけませんが…。


芸術が理解されにくいのは、芸術家の持つセンスが常人のセンスを逸脱しているか、外れているからなのです(僕も勘違いなデザインをしてクレームをよくもらいます…泣)。

「憧れる・気に入る・夢見る・期待する・希望する…」などの肯定的感情が起こる対象は全て本人自身の持っている集団的一般要素のセンスなのです。「願望」こそが「センス」であり、努力によって「ライセンス」を得るのです。ちなみに、「競輪競馬などで一攫千金」は希望ではなく「無謀」といい、遊びでできないなら「破滅のセンス」なのだと思います。


啓蒙書で有名なマーフィー氏やカーネギー氏、ナポレオン・ヒル氏などの人達が共通して言っていることは、「願いは叶うもの」です。生まれや体形や肌や言葉や文化などの差別やハンデがあったとしても、その人個人の「幸福さ」には比例しないと言っています。

「金持ちが金を呼ぶ」は、逆に言い換えれば「願望はあるけど、できない・やれない・楽したい」と「心を貧乏」にしている人の所へは「心の裕福さ」は与えられないことになります。「お金」という資本はなくても、「心・頭脳」の資本には際限がないはずです。その資本を最大限に、有効的に投資することによって最大の成果をあげることが成功へ導いてくれると思います。「努力して無駄になることはない」ですから、自分の可能性を信じて損はないはずです。


「儲け」という文字は「信頼される者」と書きます。(”儲”の漢字を分解してみてください。)
「儲ける人」になりたいなら、「信頼される者」というセンスを磨く努力が「儲けるライセンス」を得ることになるのではないでしょうか? 相手の見えないウェブの世界においても、メールや掲示板などの、ちょっとした心配りのあるやりとりの仕方で反応は変わってきます。

「悪銭身に付かず」ですから、一時的に「楽に(稼)ぐ」ことはできても、長期的に「(儲)ける」ことはできないのだと思います。コピペサイトなどはいい例でしょう。表面的なインプット・アウトプットだけで生き残れるほど世の中甘くありません。事実として、悪銭で業は増えても幸せになった人はいないのですから。

僕は『得手に帆をあげて』、誰かにセンスを提供することが出来れば、いつか自分に返ってくると信じて、「幸せになる資格」を得る努力をしていきたいと思います。

written by ayanpa

投稿者 ayanpa : 2005年08月21日 20:44

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